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| ●オリジナルコンテンツ>スペシャルギターレポート>ペペ・ロメロインタヴュ− | |||||||||||||||||||
| 2001年7月13日(金)翌日にブローウェル指揮、コルドバ管弦楽団との共演を控えた我がパパ、ペペ・ロメロ。私の今回のスペイン滞在中、幸運にもマドリッド、ヴァレンシア、コルドバと、ゆっくり御一緒する事が出来ました。以前より「今度会ったら、ゆっくりインタビューさせてください」とお願いしてあったので、快く応じて頂いたのをはじめ、リラックスしてゆっくりインタビュー出来るようにと御配慮頂いたり。当初はスペイン在住の友人に通訳に入ってもらい、スペイン語にてと申し入れたのですが、「いつもお前とお喋りしてるようにフランクにやろう」ということで英語でのインタビューとなりました。したがって日本語に翻訳する段階でも、親しい間柄での口調らしくなるよう配慮いたしました。兄上セリンも同席しての楽しい昔話など、珍しいお話しもたっぷりと伺うことが出来、お楽しみ頂ける内容になったと思います。場所はスペイン・コルドバ旧市街、ポトロ広場のとあるレストラン。夜11時頃からグラスを片手に、柔らかい夜風を受けながらのインタビューとなりました・・・・・・
実際にファリントンと初めて出会ったのは兄のセリンで、1953〜4年頃だったと思う。その頃、セリンはある友人から「ギター好きのアメリカ人がいるから、会ってみたらどう?」って勧められていたんだ。 アメリカへ渡って最初、私達一家はサンタバーバラに約一年ほど住んだ。ファリントンが企画した’58年のサンタバーバラでの父のリサイタルはこの時のものだよ。このコンサートは大変な成功を収め、そしてこの時、ファリントンは、自分が“マーティン・マリン・ラジオ”の役員であることを私達に告白したんだ。 その頃−1959年、父はサンタバーバラでのコンサートを企画していた。それは、父・セリン・私のトリオのコンサートだったんだけど。父がこのコンサートの開催を決心した日のことは今も忘れられない。 さて、アンコールでヴァイスの『バレー』を弾き終わったアンヘルは、今度はスカルラッティのソナタを弾き始めたんだ。そして、なんと、アンヘルは自分が準備した曲全てを弾き終わるまでステージから降りることを拒絶し、セリンや私の分の時間まで弾いてしまった! 1960年1月20日、私達は自分達で企画したコンサートをロサンゼルスで開いたんだ。このコンサートが正式な形での四重奏団としての最初のコンサートで、この夜、我々は二曲の四重奏曲を演奏したんだ。それは父が四重奏用に編曲した作品だったんだけど、四重奏の世界をクリエイトするという意味でも、まさに四重奏団の誕生と言えるだろう。 その頃、セリンは合衆国陸軍から徴兵された。幸運にもセリンの兵役は短い期間で済んだんだけど、その訳をこれから話そう‥‥。なぜって、ロメロスの成功への幸運はこのダメ兵士に負ったんだから。 セリンが新兵教育のプログラムを受けていた時のこと、そのプログラムには手榴弾を投げる訓練があったんだ。普通、手榴弾はピンを抜き、遠く前方へ投げるものだが、何故かセリンは真上に投げてしまったんだ(大笑)! セリン:誰も怪我しないなんてことはわかっていたのさ!みんなをちょっと怖がらせてやろうと思っただけなんだから!(爆笑) ペペ・ロメロ:翌日、セリンはその新兵教育のプログラムから外されて(笑)、今度はある教会の神父のサポート役に回された。教会での神父の務めを助けるためにね。しかしセリンは、この仕事にもあまり熱心に取り組まなかった。 その頃、父は陸軍にいるセリンへある一本のギターを贈った。それは父が初めて注文し、そして受け取ったコルドバのミゲル・ロドリゲスのギターだった。そのギターはセリンが最も愛するコレクションの一つになったんだけど、そのギターは最初、軍隊へ送られたんだよ。 又、その軍隊にはもう一人のクラシック音楽愛好家がいた。彼はユーゴスラビアからの移民の息子で、航空産業のある技術を発達させる仕事をしていた。後に大金持ちになったその青年の名前は、ジェームス・ルーカスといい、当時ルーカス青年はある夢を持っていた。それは、コンサート・ミュージシャンのマネージャーになることだった。そして、その頃ルーカスはなんとなくセリンに出会った。軍隊でね。 私達一家がルーカスに初めて会ったのは、私達がセリンを訪ねて軍へ会いに行った日のこと。他の兵士やその家族達を乗せたバスに乗って、私達はロスの郊外まで行った。激しい雨の日でね。目的地にバスが到着し、皆は雨の中へと降り立ったのさ。すると、タクシーへ乗り込もうとしていたある若い兵士が我々を見つけ「どうぞこのタクシーをお使い下さい」と言ってくれた。 ある日、セリンはルーカスを我が家に連れてきた。その頃、ルーカスは、自身の「コンサートマネージャーになりたい」という夢は、セリンによって叶えられると思っていたんだ。ソリストとしてのセリン・ロメロによってね。ルーカスはセリンの演奏を大変気に入っていたから。 我々のロスでのコンサートは大々的な成功を収め、レビューも全て好意的なものだった。そこでルーカスは、ロメロ四重奏団を本格的に売り出す決意をし、ニューヨークへ行き、各地の名門コンサートホールにてのコンサートをプロモートする作業に入った。その時のコンサートツアーはサンフランシスコを始め、シカゴのオーケストラホール、ボストン・ジョーダンホール、ニューヨーク・タウンホールと、大規模なものだった。幸運にもこのコンサートツアーは大成功し、あらゆるプレスに載ったレビューで絶賛されたんだ。 ルーカスのプロモーターとしての手腕は全く見事なもので、我々は金銭的にも成功することが出来た。1961年、我々のこの4つのコンサートのプロモーションの為にルーカスは、なんと10万ドル以上つぎ込んだんだよ! そのおかげもあって、その3ヶ月程後にはカーネギーホールやリンカーンセンターでもコンサートをすることができたのさ。本当に、素晴らしい大成功だね。 ニューヨークでの最初のコンサートの後、数社のレコード会社が接触してきた。マーキュリー、RCA、ビクターなどがね。各社共それぞれニーズが違ったんだ。例えば、RCAは四重奏のみの録音を希望していた。 ぺぺ田代:誰が運転していたんですか? ペペ・ロメロ:セリンだよ。セリンはいつでも我が家のキャプテンなんだ。 運転席のベンチシートには父、母のアンヘリータ、そして運転手のセリン。後部荷台に私と弟のアンヘル、そして楽器と荷物って寸法さ。 ある夜のこと。夜通し車を走らせなければならぬ日程でね、夜中の2時か3時頃だったろうか、ガソリンを入れるためにセリンはガソリンスタンドへ寄ったんだ。いつものように後部荷台で縮み上がっていたアンヘルと私は、冷え切った体を温める絶好のチャンスと思い、セリンが車を止めた途端、そのガソリンスタンドの建物内へと駆け込んだ。給油を終えたセリンは、荷台に私とアンヘルがいるかどうかを確認せずに出発してしまったんだ!(笑)しばらくすると父がそのことに気づき「おい!ペペとアンヘルがいないぞ!!」と叫んだわけさ。セリン達は、私とアンヘルはフリーウエイを走行中、荷台から転げ落ちてしまったと思い込んで、来た道を戻り探し回ったんだって(笑)。 今日では、沢山のギター四重奏団が当たり前のように存在してるけど、当時は殆ど前例がなく、四重奏のレパートリーを開拓することは、まさしく創造だったんだ‥‥。トローバ、ロドリーゴを初めとする偉大な作曲家達が我々の為に曲を書いてくれた。それは大変エキサイティングなことで、ましてや家族でそれに関わることが出来たんだから。 私達はまだ年若き兄弟達だった。本当に若かったよ‥‥。そんな中で体験した数々の出来事は、まさに人生経験でもあったよ。もちろん、喧嘩もしたさ。でもステージに上がると魔法がかかって、どんな問題でも跡形もなく消し去ってくれるのさ! セリン:ギターや音楽に関する喧嘩じゃないよ! ペペ・ロメロ:そう。日常のごく些細な他愛のない喧嘩さ。だって今でもやってるんだから!(笑)今でもステージが、つまらない問題なんて吹っ飛ばしてくれるんだ。 ぺぺ田代:父上セレドニオのギタリストとしての側面を話してください。 ペペ・ロメロ:父は、私が知る中で最もエレガントなギタリストだったよ。時に炎の如く力強く輝かしい音色で、またある時にはクリーンで透明でクリアなサウンドで。 ぺぺ田代:ミランの『幻想曲第16番』は、貴方にとって特別な曲ですよね。1993年録音のアルバム「スペインの夜」での演奏内容と、1998年録音の「父が教え給えし歌」でのバージョンは大分違う。また、リサイタルのオープニングに必ず弾きますよね。だから、この『幻想曲第16番』についてのお話をして頂きたいのですけれど。 ペペ・ロメロ:ミランの『幻想曲第16番』は、父にとっても特別な曲だったんだ。父はこの曲がとても好きだった。父は「この曲は音楽の本質へと続く隠された道を持っている。この曲は音楽の全てを内包している」と考えていたんだ。 父の人生の最晩年、毎朝セリンと私は父の家へ行ってこの曲を弾き、議論することで一日を始めていたんだ。その議論はもちろん、音楽的な解釈ばかりでなく、この曲に内包された精神的な部分を考察する事も含まれていた。 93年の私の録音バージョンに関して、その演奏速度が、父は早すぎると考えていた。これは、単純にテンポ設定が速い、遅いという問題ではなくて、より音楽的な解釈の問題だよ。 ミランはコンソナンシアスはより遅く、レドブレはより速く演奏するように求めている。だから私は、いかにも幻想曲らしいこの要求に従って演奏していたんだ。しかし、もしコンソナンシアスとレドブレを、主題と変奏のように考えると、ミランのその要求はテンポが揺れすぎて不具合を生じてしまうことになる。すると、問題はミランがこの曲をどちら寄りに考えていたのかが、重要な問題になるわけだ。そこで父は、幻想曲ばかりを集めたもう一冊の曲集には、この16番が含まれていないことを確認させてくれたんだ。愛情深く、賢い方法でね。父のおかげで私はこの曲の解釈を改善することが出来たんだ。−だから、お前が言うとおり「スペインの夜」での演奏と「父が教え給えし歌」での演奏は、大いに違うものとなったのさ。 まあ、こんな風にミランの『幻想曲第16番』に関しては、沢山議論し、学んだよ。 ところでお前は、この曲がロドリーゴの大のお気に入りだったことを知っているかい?偉大な人達が価値を見いだす素晴らしい曲なんだ! ぺぺ田代:今年2001年はロドリーゴ生誕100周年ということで、『アランフェス協奏曲』を筆頭に、ロドリーゴ作品の演奏機会も大変多いですね。
お前が聴いた先日のサグントでのコンサート(※1)は、ロドリーゴ没後2周年の記念コンサートだったよね。ましてや、サグントはロドリーゴの生誕地ということで、まさしく記念碑的な性格の強いコンサートで、私は何か特別な気持ちになっていたんだ。 あの日、サグントの街にいると、ロドリーゴが生を授かった輝かしい喜びと、既にロドリーゴを失ってしまった悲しみとが、同時に心に去来した。もちろん、生と死は人生の中に共にあるものだけどね。また、ロドリーゴとの想い出も胸に去来した。 あの日私はそんな想いを胸にステージへ上がり『アランフェス協奏曲』を弾いた。もちろん、彼を失ったことは悲しい。しかし、彼が世界に残してくれたもの、それは紛れもなく偉大な美だ。少なくともそれによって世界はより楽しいものになったし、又、彼の魂をその音楽の中に感じられることは、とても嬉しいことだ。私はいつも『アランフェス協奏曲』を弾くたびに思うのだけど、この曲はなんと沢山のことを世界へ、そしてギターへ与えてくれたんだろうね! 私はロドリーゴという人間が存在したことを賞賛するし、かつ私達が友人同士で互いにその関係を楽しめたことは、本当に幸福だったと思っている。 ぺぺ田代:3月のブルゴス指揮、スペイン国立管弦楽団での大規模なアメリカツアー(※2)を始め、本当に沢山、『アランフェス協奏曲』を演奏なさっていますが、そんな中で『アランフェス協奏曲』に対する考え方が変わったことはありますか? ペペ・ロメロ:例えばお前がある曲を毎日弾くとするよ。すると、その曲は昨日と違う感じ方や考え方をお前に与えてくれるはずだよ。まるで親しい友人のようにね。曲というものは、単純に奏者と相互作用を生み出す程度のものではなくて、日々、共に成長し変化するものなんだよ。だから、毎日何かの発見があるし進歩しているんだ。 私にとって『アランフェス協奏曲』は、紛れもなくそういったものに間違いない。だから、3月のツアーの時も「今日もまた『アランフェス協奏曲』か‥」と思うよりは、毎日が愛しき旧友と共に互いを深く知り合い、かつ高め合う素晴らしいチャンスの連続だったよ。 ぺぺ田代:最近はすっかり貴方のメインギターになったリトルペペのギター。今回のヨーロッパツアーにお使いの新作No.24も益々素晴らしいギターですが、そのお気に入りの製作家について話してください。 ペペ・ロメロ:ハッハッハー!良い質問だ!(大笑)私が“リトルペペ”と呼んでいる息子がギター製作家になったことは、例えようもなく嬉しく、かつ誇らしいことだと思っているよ。私達に続く世代の若い人達に、ギターに対し敬意を持ち、愛し、全力で関わるということが受け継がれてゆくのを見るのは、とても幸運だと思うし、本当に嬉しいよ。父と私達兄弟がそうだったように、今度は私達と彼等若き世代と。息子は製作家に、甥っ子達はギタリストになってくれたんだから。 もう一つ、私にとってラッキーなのは、リトルペペが工房を私達の家、つまり私の両親、セレドニオとアンヘリータが建てた家に作ったことなんだ。毎朝リトルペペが工房へ仕事にやってくると、私は彼の仕事ぶりを見、そしてその楽器に対して私なりの貢献が出来る。−というのは、ギタリストと製作家という関係において、ギタリストが楽器に望む要望や期待を伝えることなんだ。 ぺぺ田代:出来上がったギターがみんな欲しくなりませんか? ペペ・ロメロ:お前の察するとおり、私の中のギタリストとしての部分はこう言うさ。「こんな素晴らしいギターを他人に渡してなるものか!」ってね(大笑)。 全てのリトルペペのギターは、完成した時点で私が試し弾きするわけで、そこで、あるギターを気に入ってしまったとしても、さっき言った条件以外だったら「このギター、皆に内緒でパパに売っておくれ」って言ったってダメなんだよ(笑)。 ぺぺ田代:パパ、今日はとても古い懐かしい話から新しいニュースまで、興味深い楽しいお話ばかりでした。長い時間、どうもありがとうございました。 ペペ・ロメロ:こちらこそ。とても楽しかったよ。
ペペ・ロメロクラシック・ギタリスト。1944年3月8日スペイン、マラガ生まれ。 目も眩む技巧と輝かしい音、豊かな歌心でスペインギターの神髄を現代に継承する最後の巨匠。 ギターのロイヤルファミリーと賞されるロメロ一家の中心的存在としての活躍はもとより、70年代からソロ活動にも繁忙を極め、フィリップスより歴史的名録音を多数、発表。 日本にも数回来日しているが、1999年12月、ソロとして初来日となった待望のステージは、噂を越える圧倒的な名演を披露し、伝説となっている。 今、技巧の衰えなど微塵も無く、かつ、円熟味際立つ昨今の内容は、まさしくこの音楽家が人生の絶頂期に居ることを伺わせる。 音楽によって聴衆を感動させられる、数少ない本物の音楽家。絶頂期の現在、待望の来日です。 (※1)2001年7月6日、ヴァレンシア・サグントにてヴァレンシア管弦楽団の演奏会が開催されました。「ロドリーゴに捧ぐ」とのタイトルにて、オールロドリーゴプログラムの中、『アランフェス協奏曲』のソリストとしてパパが招かれました。 (※2)ラファエル・ブルゴス指揮、スペイン国立管弦楽団の大規模なアメリカツアーが2001年3月1日ニューヨーク州エルミラを皮切りに28日のテキサス州ダラスまで、合計20公演という大規模なツアーにて、全公演『アランフェス協奏曲』を演奏。 |
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